詩吟教師 髙足 登美子 様
第1章 入院の経緯
初診の際、“木原先生”の診断で私に下された病名は“変形性頸椎症”と“頸部脊柱管狭窄症”です。これはかなりのショックでした。
思い起こせば平成30年10月頃から、首や肩そして腕にまで痛みを感じるようになり、市内の脳神経外科や整形外科で診て頂き、MRIやレントゲン、CTといろいろ検査の結果、どちらの先生も「手術するほどではないね。神経に効く薬と痛み止めを出しますから、しばらくの間様子を見ましょう」と同様の見解でした。ところが4ヶ月経つ間に良くなるどころか、痛みも次第に強くなり広範囲になってきました。特に体を横にすると尚更痛く、夜もまともに寝ることが出来ず、毎日夜が来るのが恐ろしくなりました。睡眠不足も極限に達し、遂には歩行も困難になってきました。その時頂いた痛み止めの薬の副作用が強く出て、その後1ヶ月間は痛みに耐えながらの寝たきり状態となり、筋肉もすっかり落ちて日常生活がまともにできず、絶望的な日々でした。「これはただ事ではないね」とさすがに娘夫婦も心配してくれて「神経が壊死してからでは手遅れになるから、1日も早く良い先生を見つけて治療して貰わなくては大変なことになるわよ」と早速インターネットで京都の“木原先生”を探し出してくれたのです。
ただ京都はちょっと遠すぎるかと思いましたが、遠い近いなど言っている場合ではありませんでした。即座に決断してもう頸椎手術の第一人者である木原先生にしか頼れる先生は居ないので、是非京都に行かせて欲しいと主人に頼みました。たとえ誰に反対されても私の決意は変わりませんでしたけれど・・・。
私は、もう三十数年来“詩吟教室”を開いており、小さい会ながら二十数名の会員が毎日数名づつ我が家に通って来てくれて稽古を楽しんでくれているのですが、皆さん心配はしながらも「エーッ、本当に京都まで行くんですか」とびっくりしたり、半分あきれられたりで“信じられない”と云う顔をしていました。
私が娘たちの調べ上げた木原先生の話をしますと「そんなに素晴らしい先生なら必ず治してくれますよ」と力づけてくれまして「早く良くなって、これからもズ~ッとお稽古を続けて欲しい」と口を揃えて言ってくれました。会員は私の応援団となり、大きな力をくれたのです。本当に有難さが身に染みました。
不思議なことに寝床に入ると痛みがひどく寝付くことができないのに、椅子に座っている方がいくらか楽だったので、夜中に何度も椅子に座ってウトウトしている状態でした。
座っている方が楽なので1年2ヶ月過ぎての入院が決まった直前までお稽古は続けていました。むしろ皆さんが毎日来てくださることで、痛い辛さを忘れることが出来て精神的にとても助けられたのです。
もしズーッと一人で居たら、とっくに鬱病になっていたと思うのです。
痛みの発症から1年2ヶ月、年号も令和に変わり、12月24日のクリスマスイブの日が手術日と決まりました。それ以前の診察日に手術に向けての怖いリスクの話を聞かされて気持ちがちょっと引けましたが、木原先生への信頼がその不安な気持ちを打ち消してくれました。
木原先生は噂通りのスーパードクターでした。手術翌日には今まではもつれて歩きにくかった足が、それこそ一晩でまるで魔法を掛けられたかの様に軽く歩けるではありませんか。
もう感激と感謝しかありませんでした。
まさにこれは奇跡です!今まで健康だった時以上に軽くなるなんて思いもよらず、まるで夢のようでした。
“あゝ思い切って京都迄来てよかった”先生とのご縁を授けて下さった目に見えない偉大な力に思わず手を合わせました。
病院には全国からの患者さんが集まって来ると聞きましたが、これも本当の話で驚きました。
時々いろいろな患者さんとお話をする機会があり、決まって「どちらからですか」とお互いに気になるのです。私は神奈川県でかなり遠いと思っていたのですが「私は北海道からよ」「私は山形」「あら私は鹿児島からよ」何と神奈川県は近い方じゃありませんか。自慢にもなりません。全国の人に会える病院とはかなりめずらしいと思います。皆さんのほとんどが地域の病院では治療は不可能に近かったようです。
病院内の数か所に飾ってある“慈心妙手”と書かれた額が気になりまして、説明文を読みますと“慈心”とは患者様を慈しみ思いやる心、そして“妙手”とは病気を治すための優れた医療技術だそうです。
それを理念として実践し、又先生をサポートする多くのスタッフの皆様の一人一人が同様の心意気で患者に接し、病院全体がまさにワンチームであると強く感じました。温かい空気に包まれ、本当に雰囲気抜群の稀に見る病院だと思います。
お陰様で新しい人生を80歳を目前に手に入れることが出来た私は、なんてラッキーなんでしょう。これから80歳からの人生を謳歌するつもりです。本当にいくら感謝してもしきれない思いです。心から御礼申し上げます。有難うございました。
第2章 リハビリの楽しみ
京都木原病院は、立地条件が頗る良い処でした。道路を隔ててすぐ前に、京都を代表する一番沢山の国宝の仏像を有する“東寺”があり、毎日五重の塔を仰ぐことが出来ます。手術の翌日から3日程病院内の歩行が出来、4日目頃から外出が許されました。
兎に角姿勢を正しく歩くことがリハビリなのです。さっそく皆向かうのが、“東寺”です。
先生方は決して強制は致しませんが、こうした魅力のある名所があちらこちらにあり、自ら散歩に出たくなるのです。皆首にカラーをつけて歩きますので“あゝあの人も患者さんだな”とすぐ分かります。
病院を 出てリハビリの 初詣
同院の リハビリ仲間 着ぶくれて
リハビリは ただ歩くのみ 寒の街
ようこそと 招く東寺の 寒桜
少しずつ体を慣らして行くとかなり広範囲まで歩ける様になりました。
手術から8日目の元旦には、清水寺まで行きました、しかしあの大きな坂には苦労しましたが何とか往復出来ました。
足は軽くとも体力の回復にはある程度の時間が必要で、1日1ヶ所が精々です。京都タワーから京都の町を一望し、次はどの辺りにしようかなと考えるのも楽しみの一つでした。
タワーから 望む京都は 春日和
手術から退院の日までに、私は“東寺”には10回行きました。そして“清水寺”“東本願寺”“西本願寺”“平安神宮”“銀閣寺”“哲学の道”、手術によって嘘の様に軽くなった私の足は信じられない程快く京都見物に誘ってくれました。
クリスマスイブの日の手術から年を跨いでの入院は“ちょっとどうかしら”と思ったのですが、考えてみますと一番良かったと思います。大晦日の夜“東寺”の除夜の鐘の音が、しかも生で聞ける幸運に感動致しました。
病室の 窓揺らし入る 除夜の鐘
病床で 除夜の鐘聞く 古都東寺
元旦の「初日の出」はこれ又、今までに見たこともない見事なものでした。病院の4階から他の部屋の患者さん、看護師さん数名の方々と“今か今か”と待ちわびながら、次第に太陽が昇るのを待ちました。
雲の幾筋もの切れ目から強烈な真っ赤な陽光が輝き、直視したら目がつぶれてしまいそうな初日の出でした。偉大な太陽を拝んで、きっと今年は良い年になるに違いない、そんな予感がしました。
東山が 燃やされそうな 初日の出
文学的には何の知識も文才もない私にも詩心を抱かせてくれる古都“京都”。一番最後に訪れたのは“銀閣寺”でした。今回のリハビリ巡りの中で私が一番気に入った処です。
そこから延びる“哲学の道”は心が落ち着き、頭の整理には持ってこいの場所でした。
私もここでいろいろ考えてみました所、「決断こそが最強の武器であること」「決断こそが新しい人生の扉を開ける鍵である」ということをしみじみと感じることが出来ました。
最後に愚作連作です。大いにお笑い下さいませ。
新幹線 名医頼りて 冬の古都
クリスマス クルシミマスの 手術かな
覚悟して 向かう冷たき 手術室
麻酔覚め 命確かむ かじかむ手
手術終え 現世に戻る 年の暮れ
搗きたての 餅を患者に 医師の笑み
初春や 名医治療の 軽き足
今回の入院は私にとって一生一代の一番大きな思い出となりました。
本当に私に関わって下さった多くの方々に心より厚く御礼申し上げます。
ありがとうございました。